こんにちはたっけーです。
今回は都市対抗野球野球を全力で応援するために、過去の社会人野球で素晴らしい活躍をした、レジェンド選手をまとめました。
初心者の方は、「今年の都市対抗野球に行ってみたい」、と思うような記事になっています。
レジェンド選手の選定にあたっては、筆者の主観で選んでいるのであしからず。
この記事は、野球歴30年のたっけーが解説しています。
ネット情報をまとめました。
それでは、本題にに入っていきます。
社会人野球レジェンド選手とは
社会人のレジェンド選手と聞くと、不思議に思うことがあります。
なぜ「プロに行けなっかたのか」ということです。
選手によっては
「行かなかった」
という言葉が当てはまるかもしれませんが。
様々な理由があると思いますが、選手の人間性にも注目です。
なぜプロ野球ではなく、社会人野球を選んだのか
「プロにいける実力がなかったから、社会人なんだよ」
という人もいますが、あえて社会人野球を選んでいる選手もいます。
なぜ社会人野球にそこまで執着したかを考えながら、
記事を読んでいただくとより興味が湧くのでは、と思っています。
推測になりますが、それだけ圧倒的な成績を残した選手達です。
プロ野球と同じくらい選手の入れ替わりが激しく、
社会人野球で長年活躍するのは非常に難しいことです。
普通であれば、プロにいけず腐ってしまいそうな状況の中、もくもくと社業や野球を通して、長年、活躍する姿は感動に値します。
1発勝負の中に野球人生をかけ、活躍した選手達を紹介していきます。
西郷泰之
東京都出身。練馬リトルシニアから日本学園高校卒業後、三菱自動車川崎(後・三菱ふそう川崎)に入社。
1995年に初めて日本代表入りすると、日本代表チームでも中核を打って社会人野球を代表するスラッガーとなり、日本代表キャリア18を誇る。
30代に入ってもその強打は衰えることなく、2007年の第78回都市対抗野球大会では、東芝に補強されて全試合で4番を任されて3本塁打を放ち(8打点)、打撃賞を獲得した。
なお、都市対抗野球大会での個人通算ホームラン数14本は、杉山孝一(新日鐵名古屋)と並ぶ大会記録である。
2008年シーズンをもって三菱ふそう川崎が活動休止したのに伴い、当初は引退を決意していたものの、Honda・安藤強監督の熱心な誘いに折れ、Hondaへ移籍した。
成績
また、決勝進出6回すべてで優勝しており、優勝請負人との異名を持つ。
都市対抗において
10年間で6度の優勝経験は史上最多、上記のとおり通算14本塁打は史上最多タイ。
2014年、故障等を乗り越え41歳にして都市対抗野球大会10年連続出場を達成した。
過去の成績がとにかくすごい。
都市対抗では無類の勝負強さを発揮し、数々のチームを優勝に導いた選手。
チームの休部にもめげず、移籍したHondaでも優勝するという偉業を達成。
社会人野球のみで20年以上現役を続けた、素晴らしい選手です。
杉浦正則
1991年に大学を卒業し、社会人、日本生命に入社。
1992年バルセロナオリンピックで日本代表に選出される。
抑えとして活躍し銅メダル獲得に貢献した。
同年の都市対抗でもリリーフとして起用されるが、熊谷組との決勝では先発し完投勝利。
7年ぶり2度目の優勝を飾り、同大会の橋戸賞に選ばれる。
1996年アトランタオリンピックでも日本代表に選出され、銀メダルを獲得。
1997年の都市対抗でも決勝に進出。
日本通運の高橋薫との投げ合いを制し優勝、2度目の橋戸賞を獲得した。
同年は社会人ベストナインにも選出されている。
アトランタでの銀メダル獲得後には、
日本のある球団から白紙の小切手を提示され、「社会人として6年間、会社に勤めているんだからお金の価値は分かるよね」と言われたという。
1997年の日本選手権を観戦したボビー・バレンタイン(ニューヨーク・メッツ監督)が、
杉浦のピッチングに感銘を受けて「来シーズンからメッツで投げて欲しい」とコメントしたが、杉浦は意に介さなかった。
このようなアマチュア精神を称え杉浦は「ミスターアマ野球」と呼ばれる。
オリンピック通算5勝は世界記録である。
結果も凄いですが、プロを拒否してまで社会人野球にこだわる姿勢は、凄まじい執念です。
それだけ社会人野球に、魅力があったのでしょう。
池邉啓二
2014年までの在籍した10年間全てで、
都市対抗野球大会に出場、優勝を5回経験(自チーム3回・補強選手2回)。
2014年、秋季神奈川県大会終了後に引退することを発表した。
筆者と同い年ということもあり、同年代のスーパースターです。
大きな舞台で結果をだす素晴らしい選手でした。
西郷選手に匹敵する、社会人野球を代表する選手の一人。
大久保秀昭
1992年に日本石油に入社。
持ち前の強打と巧みなリードで、1年目からレギュラーを獲得。
都市対抗野球大会史上初の、代打満塁本塁打も打っている。
在籍5年間で社会人ベストナインを4度受賞する名選手となった。
1996年に行なわれたアトランタオリンピック出場し、川村丈夫(当時、日本石油)、杉浦正則らとバッテリーを組み、銀メダル獲得に貢献。
2005年オフ、古巣の新日本石油ENEOSから監督就任。
早速その年横浜を戦力外通告された、谷口邦幸投手の獲得、田澤純一、大城基志をチームのエースに育てるなど、選手育成の手腕を発揮している。
2015年(正式には前年12月1日付)より母校・慶應義塾大学野球部の監督を務め、3度のリーグ優勝。
2019年12月より、JX-ENEOS野球部(2020年6月25日よりENEOS野球部に改称)の監督に復帰。
選手での活躍もさることながら、監督としての成績が素晴らしい。
今年からENEOS野球部に復帰ということで、新たな記録が増えていくことでしょう。
これからの活躍にも期待です。
【まとめ】社会人レジェンド選手
どの選手も社会人野球愛にあふれて、社会人野球の発展に寄与した素晴らしい選手たちです。
現在は社業についている?選手やコーチをやっている選手もいると思うのですが、監督として社会人野球に帰ってくることを期待したいです。
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